源義経
アスペだな(笑)
牛若丸
源頼朝は日本中の神社仏閣に巨額の寄進をしている
つまり精神的に病んでいた可能性がある
つまり精神的に病んでいた可能性がある
義経チンギスハン説の真相はいかに
頼朝なんかさっさと見限ればよかったのにね
だれか強力なブレーンがいればよかったんだろうけど弁慶は博学だけどこの人も政治家タイプではなかった
だれか強力なブレーンがいればよかったんだろうけど弁慶は博学だけどこの人も政治家タイプではなかった
義経は戦の天才だったけど政治は素人だったということだろ
瀬戸内の豪族は平家か源氏かはあまり気にしてなかっただろうから頼る先はあったと思う
瀬戸内の豪族は平家か源氏かはあまり気にしてなかっただろうから頼る先はあったと思う
ばーか
舞の海が日馬富士を叩いていたのは全盛時代だからw
>義経よりもっと愚将はいた論
それはすでに俺が50で書いているんだが
やっぱり頭の中身が空っぽなんですね
市谷に関する反論ができないようで
結局その程度なんだよあんたは
交渉でってw
俺はどちらかというと左翼だがあんたはパヨクだな
交渉すれば平家がすんなりと返すと思ってんのか
そして源平仲良く次の時代を築きましょうってか
現実が見えていないね
舞の海が日馬富士を叩いていたのは全盛時代だからw
>義経よりもっと愚将はいた論
それはすでに俺が50で書いているんだが
やっぱり頭の中身が空っぽなんですね
市谷に関する反論ができないようで
結局その程度なんだよあんたは
交渉でってw
俺はどちらかというと左翼だがあんたはパヨクだな
交渉すれば平家がすんなりと返すと思ってんのか
そして源平仲良く次の時代を築きましょうってか
現実が見えていないね
ナンバー2に安住した全盛時代?
>一ノ谷でしか合戦がなかったと思ってる無知w
>義経の奇襲の前に範頼がすでに合戦を始めているんだが
>しかも平家側が合戦をしなかったのは停戦協定のためではなく清盛の追悼行事を優先したから
>さらに言えば「鵯越」にこだわるとそこを攻撃したのは摂津源氏の行綱で義経の配下ではない
>頼朝はこれで義経を咎めた様子もないし何が問題なのだろうか
義経の話題がゼロだったから反論する余地がありませんね。
平氏の北条仲時が負けた時は、時の光厳天皇を源氏に渡しているよ。左翼でなければ、これが普通
>一ノ谷でしか合戦がなかったと思ってる無知w
>義経の奇襲の前に範頼がすでに合戦を始めているんだが
>しかも平家側が合戦をしなかったのは停戦協定のためではなく清盛の追悼行事を優先したから
>さらに言えば「鵯越」にこだわるとそこを攻撃したのは摂津源氏の行綱で義経の配下ではない
>頼朝はこれで義経を咎めた様子もないし何が問題なのだろうか
義経の話題がゼロだったから反論する余地がありませんね。
平氏の北条仲時が負けた時は、時の光厳天皇を源氏に渡しているよ。左翼でなければ、これが普通
なにそのツッコミ待ち感満載の書き込み
>>44
ツッコミ待ってんだけどさあ
早くしてくんない?
ツッコミ待ってんだけどさあ
早くしてくんない?
頼朝は元々猜疑心の強い性格だったし、叛意があろうと無かろうといずれ義経も範頼も消される運命なのは避けられなかった。
そもそも源氏という一族からして昔から兄弟や身内同士で食い合う事が珍しくなかったし、これも当然の帰結なのかもしれん。
義経が頼朝の元へ参じた時、かつて「後三年の役」で新羅三郎義光が奥州で苦戦の兄の義家の元へ救援に駆け付けた事に
なぞらえて喜んだ一方で、もう一つの事実も頭をよぎっている。
それは義光が義家の死後棟梁への野心を燃やして義家の後を継いだ義忠を殺した事。
つまり頼朝は最初から弟達に決して心を許してはいなかった。むしろ疑念に満ちた目で見ていたと言ってもいい。
『弟が駆け付けてくれたのはいいが、いつかはコイツも義光のように自分が死んだ途端本家を乗っ取ろうとするかもしれない』と。
そもそも源氏という一族からして昔から兄弟や身内同士で食い合う事が珍しくなかったし、これも当然の帰結なのかもしれん。
義経が頼朝の元へ参じた時、かつて「後三年の役」で新羅三郎義光が奥州で苦戦の兄の義家の元へ救援に駆け付けた事に
なぞらえて喜んだ一方で、もう一つの事実も頭をよぎっている。
それは義光が義家の死後棟梁への野心を燃やして義家の後を継いだ義忠を殺した事。
つまり頼朝は最初から弟達に決して心を許してはいなかった。むしろ疑念に満ちた目で見ていたと言ってもいい。
『弟が駆け付けてくれたのはいいが、いつかはコイツも義光のように自分が死んだ途端本家を乗っ取ろうとするかもしれない』と。
>>67
幼時に一緒に育っていない範頼や義経のような異母兄弟は
頼朝にとって単なる遠縁みたいなもの
もし同母弟希義が生き残っていたら扱いはどうだったか
まあ先祖の義家と義綱は同母兄弟でも仲が悪かったのは歴史的事実だが
幼時に一緒に育っていない範頼や義経のような異母兄弟は
頼朝にとって単なる遠縁みたいなもの
もし同母弟希義が生き残っていたら扱いはどうだったか
まあ先祖の義家と義綱は同母兄弟でも仲が悪かったのは歴史的事実だが
彼らが「鎌倉殿」つまり頼朝の家来になったのは、頼朝を棟梁として「自分たちの権利を主張していく」ためです。
つまり真の敵は、後白河法王を頂点とする京都朝廷なのです。
関東武士を虫ケラと考えていて「黙って服従して年貢を送ってくればいいんだ」と考えている貴族たちです。
政治家・頼朝は、朝廷に対して「これからは、そうはいきませんよ」と軍事力を背景に強力に主張していかねばなりません。
若いときからずっと関東で武士に混じって暮らしていた頼朝は、自分が「担がれた身」であり、そうすることが自分の
存在意義であることを、いやというほど理解しています。
ところが義経は、自分勝手な戦争に勝っていい気になった挙句、こともあろうに、その「敵の巨魁」に丸め込まれ、
鎌倉の頼朝を無視して勝手に官位を貰い、搾取側の貴族の仲間に入れてもらって喜んでいます。頼朝が激怒するのは当然です。
本当の敵は平家ではなく朝廷なのに、それに丸め込まれて得意になっているのですから。
弟にコレをやられては、示しがつかない、どころの話ではないのです。
これじゃあ、武士を忘れて貴族になってしまった平家と同じだ、所詮は京都の貴族社会で育った御曹司、
こんな男に、協力するいわれはない、と、関東武士たちは皆、義経からソッポを向いてしまいます。当然です。
「弟だから偉い」というのは、まるきり「平家」の考え方、貴族の発想です。断じて許すわけにはいかないのです。
義経が「人気があった」と言われますが、それは京都の貴族や庶民の間で、です。
肝心の関東武士には「まるで不人気」だったというのは、当然だというのが分かります。
頼朝が、義経の人気に「嫉妬」したのだ、という人がいたら、それこそ「貴族の発想」です。関東武士の棟梁、
いや、関東独立国の王という、いまだかつて誰もやったことのない、もんのすごい難しい立場を
こなしていかなければならない頼朝が、義経を羨ましがる理由も、暇も、何もありません。
義経は当然のように、鎌倉から追討されます。関東武士は誰も義経の味方をしませんでした。
当たり前です。武士の権益を守ろうとしない義経が勝っても何もいいことはないし、
「戦う目的がまるで分かっていない」義経が勝つはずもないのです。馳せ参じる物好きはいません。
義経が孤立するのは、歴史の必然なのです。
つまり真の敵は、後白河法王を頂点とする京都朝廷なのです。
関東武士を虫ケラと考えていて「黙って服従して年貢を送ってくればいいんだ」と考えている貴族たちです。
政治家・頼朝は、朝廷に対して「これからは、そうはいきませんよ」と軍事力を背景に強力に主張していかねばなりません。
若いときからずっと関東で武士に混じって暮らしていた頼朝は、自分が「担がれた身」であり、そうすることが自分の
存在意義であることを、いやというほど理解しています。
ところが義経は、自分勝手な戦争に勝っていい気になった挙句、こともあろうに、その「敵の巨魁」に丸め込まれ、
鎌倉の頼朝を無視して勝手に官位を貰い、搾取側の貴族の仲間に入れてもらって喜んでいます。頼朝が激怒するのは当然です。
本当の敵は平家ではなく朝廷なのに、それに丸め込まれて得意になっているのですから。
弟にコレをやられては、示しがつかない、どころの話ではないのです。
これじゃあ、武士を忘れて貴族になってしまった平家と同じだ、所詮は京都の貴族社会で育った御曹司、
こんな男に、協力するいわれはない、と、関東武士たちは皆、義経からソッポを向いてしまいます。当然です。
「弟だから偉い」というのは、まるきり「平家」の考え方、貴族の発想です。断じて許すわけにはいかないのです。
義経が「人気があった」と言われますが、それは京都の貴族や庶民の間で、です。
肝心の関東武士には「まるで不人気」だったというのは、当然だというのが分かります。
頼朝が、義経の人気に「嫉妬」したのだ、という人がいたら、それこそ「貴族の発想」です。関東武士の棟梁、
いや、関東独立国の王という、いまだかつて誰もやったことのない、もんのすごい難しい立場を
こなしていかなければならない頼朝が、義経を羨ましがる理由も、暇も、何もありません。
義経は当然のように、鎌倉から追討されます。関東武士は誰も義経の味方をしませんでした。
当たり前です。武士の権益を守ろうとしない義経が勝っても何もいいことはないし、
「戦う目的がまるで分かっていない」義経が勝つはずもないのです。馳せ参じる物好きはいません。
義経が孤立するのは、歴史の必然なのです。
>>102
朝廷(民意)の最優先事項は短期決戦
さっさと平家をなんとかして戦をやめろ
三種の神器が失われる可能性があっても国外に持ち出されて国外勢力に使われるよりはマシ
短期決戦を優先する結論は義仲の時に朝廷の決議が出て慎重派の兼実もOK出してる
朝廷は剣がなくなったことで特に鎌倉方に処罰は出してない
三種の神器に関しては
平家の九州進出を防いだ緒方惟義の戦果を受けて
一ノ谷の戦果を受けて
都度の状況に応じて返還交渉は行われている
恐らく義経は平時忠に接触を図って交渉していたと思われる
そもそも今の時代に和平交渉の失敗を義経のせいにするのはナンセンスでは?
最終責任は後白河院>>源頼朝でしょ
和平交渉は政治マターの問題だから
朝廷(民意)の最優先事項は短期決戦
さっさと平家をなんとかして戦をやめろ
三種の神器が失われる可能性があっても国外に持ち出されて国外勢力に使われるよりはマシ
短期決戦を優先する結論は義仲の時に朝廷の決議が出て慎重派の兼実もOK出してる
朝廷は剣がなくなったことで特に鎌倉方に処罰は出してない
三種の神器に関しては
平家の九州進出を防いだ緒方惟義の戦果を受けて
一ノ谷の戦果を受けて
都度の状況に応じて返還交渉は行われている
恐らく義経は平時忠に接触を図って交渉していたと思われる
そもそも今の時代に和平交渉の失敗を義経のせいにするのはナンセンスでは?
最終責任は後白河院>>源頼朝でしょ
和平交渉は政治マターの問題だから
それにしても未だに壇ノ浦の舟の漕ぎ手狙い撃ちを信じている人がいることに衝撃を受けるわ
平家物語も読んでいないんだろうな
平家物語も読んでいないんだろうな
>>119
漕ぎ手を集中して射るのって卑怯云々は置いておいて、特に有効な戦術とは思えないよね
先に攻撃要員と攻撃手段を潰すのがセオリーだと思う
射程距離はそう変わらないだろうから
漕ぎ手を狙ってる間に、自軍の弓兵を射られたら元も子もない
水軍それぞれ自分の港から出陣だろうし
平家方についた水軍の誰をどのタイミングで叩くかは、水軍の長や船頭の命令系統だろうから
命令系統的にもあまり有効とも思えない
元の論文を知らないんだけど、当時の河野水軍や熊野水軍などの戦闘法から検討した結論なのかな?
漕ぎ手を集中して射るのって卑怯云々は置いておいて、特に有効な戦術とは思えないよね
先に攻撃要員と攻撃手段を潰すのがセオリーだと思う
射程距離はそう変わらないだろうから
漕ぎ手を狙ってる間に、自軍の弓兵を射られたら元も子もない
水軍それぞれ自分の港から出陣だろうし
平家方についた水軍の誰をどのタイミングで叩くかは、水軍の長や船頭の命令系統だろうから
命令系統的にもあまり有効とも思えない
元の論文を知らないんだけど、当時の河野水軍や熊野水軍などの戦闘法から検討した結論なのかな?
西国武士のほうが弓は強かったらしい
平家物語でも東国の強弓で鳴らした和田義盛が負けてる
平家物語で舟の漕ぎ手をなんちゃらってのは
ほぼ勝敗が決した時点で漕ぎ手もろとも皆殺しにあったことしか見られず
どこから義経の戦術なんて言われたのか全く不明なんだよね
司馬遼の小説あたりが勘違いされて史学のほうに逆輸入されたのかもしれない
少なくとも吉川英治の新平家に漕ぎ手狙いの話は見られない
平家物語でも東国の強弓で鳴らした和田義盛が負けてる
平家物語で舟の漕ぎ手をなんちゃらってのは
ほぼ勝敗が決した時点で漕ぎ手もろとも皆殺しにあったことしか見られず
どこから義経の戦術なんて言われたのか全く不明なんだよね
司馬遼の小説あたりが勘違いされて史学のほうに逆輸入されたのかもしれない
少なくとも吉川英治の新平家に漕ぎ手狙いの話は見られない
それは後代が歴史の解答を知ってるから好き勝手に言えることで、
同時代の人たちがわかっていたかどうか。
そもそも頼朝が武家政権のトップに立つことすら想像できた人はいないだろうね。
義経が朝廷の中で重責を担うのが名誉だと思うのは当時なら当たり前のことだよ。
同時代の人たちがわかっていたかどうか。
そもそも頼朝が武家政権のトップに立つことすら想像できた人はいないだろうね。
義経が朝廷の中で重責を担うのが名誉だと思うのは当時なら当たり前のことだよ。
>>137
その通りだと思う
「京武者」として生きる武士が承久の乱ごろまではふつうにいたからね
義経の生き方(キャリアプラン)は特段間違ったものではない
あのまま生きていたら、義経は有力な院近臣になっていただろう
その通りだと思う
「京武者」として生きる武士が承久の乱ごろまではふつうにいたからね
義経の生き方(キャリアプラン)は特段間違ったものではない
あのまま生きていたら、義経は有力な院近臣になっていただろう
歴史論議で論破されたバカの最後の砦「タイムマシン」
w
w
吾妻鑑では壇ノ浦の平家側に筑前の山鹿秀遠と松浦党が書かれているようなので、水手・梶取もその郎党(従者)、郎党の親戚縁者や仲間という認識でいいのではないでしょうか。
船戦の作法はわかりませんが、遠ければ矢、近ければ矢と乗り込んだ武者同士の斬り合いだとすれば、水手・梶取は船を寄せて乗り込む武者の補助をするのも役割の1つだったかも知れません。
船の両舷に木の盾、または似た形の板を複数枚固定していた場合、その間を狙って直接射るのは近寄らないと難しいでしょう。
一方、弓の撃ち方が曲射ならば特定の範囲を狙うので、水手・梶取を狙ったとは言えなくなります。軽装でそもそもの人数が多い水手・梶取が多く倒れたことから狙ったという話になったのでしょうか。
もしかしたら戦場で源氏方を「漕ぎ手を狙っただろう。卑怯者」と罵った者がいたかも知れませんし、逃げ延びた者がそのようなことを言ったのが伝わったのかも知れません。
あと、潮の流れが変わったことで船が外海に流されてしまう可能性があったならば、飛び込んで近くの陸に泳ぎ着けなければ漂流することになるので、それを恐れて敗走しても不思議ではないように思います。
船戦の作法はわかりませんが、遠ければ矢、近ければ矢と乗り込んだ武者同士の斬り合いだとすれば、水手・梶取は船を寄せて乗り込む武者の補助をするのも役割の1つだったかも知れません。
船の両舷に木の盾、または似た形の板を複数枚固定していた場合、その間を狙って直接射るのは近寄らないと難しいでしょう。
一方、弓の撃ち方が曲射ならば特定の範囲を狙うので、水手・梶取を狙ったとは言えなくなります。軽装でそもそもの人数が多い水手・梶取が多く倒れたことから狙ったという話になったのでしょうか。
もしかしたら戦場で源氏方を「漕ぎ手を狙っただろう。卑怯者」と罵った者がいたかも知れませんし、逃げ延びた者がそのようなことを言ったのが伝わったのかも知れません。
あと、潮の流れが変わったことで船が外海に流されてしまう可能性があったならば、飛び込んで近くの陸に泳ぎ着けなければ漂流することになるので、それを恐れて敗走しても不思議ではないように思います。
「決戦!源平の戦い」で紹介されていた海上保安庁の解析によると、当日の潮流の流れは合戦の間ずっと九州から瀬戸内海側に向かって流れていたとのこと。
従って九州から外海に流れることはないが、還流が門司港IC近くの田野浦に向かって流れていたので、それに乗って流された可能性はあったそうです。
源範頼らが壇ノ浦の九州側にいたとのことなので、範頼らが田野浦に向かえば、平家方は海の義経方と陸の範頼方から挟み撃ちにあうことになったかも知れません。
従って九州から外海に流れることはないが、還流が門司港IC近くの田野浦に向かって流れていたので、それに乗って流された可能性はあったそうです。
源範頼らが壇ノ浦の九州側にいたとのことなので、範頼らが田野浦に向かえば、平家方は海の義経方と陸の範頼方から挟み撃ちにあうことになったかも知れません。
『金史別本』という書物に、中国の金朝(1115年~1234年)の頃に「源義経」という名の大将が存在したことが記されている。また、清朝(1644年~1911年)はまさに金朝の政治遺産を直接受け継いでおり、満州の貴族も自らを源義経の後代と認めている。たとえば、乾隆帝は『古今図書集成』中の『図書輯勘録』の自序において
「朕の姓は源なり、義経の後裔なり。源義経の出自は清和(天皇)なり、故に国号は清なり」と記している。しかし実際は、『金史別本』は偽書であり、まったく信用できない。それに、清代の文献には乾隆帝によるこのような話は残されていない。清朝史研究者の研究によれば、「大清」という国号の由来は
中国語の「清潔」や「清浄」といった概念とはまったく関係がなく、満州語のDaicing(Daicin)という言葉が重訳されたもので、「勇士」を意味する[7]。
『成吉思汗ハ源義経也』に集められたこれらの音声学や民俗学に基づく根拠の信頼性に議論の余地があることは、現在のわれわれには想像に難くない。しかし、このような推敲に耐えられないような説が広く言い伝えられたばかりでなく、繰り返し引用され、転載されたのはなぜだろうか。出版された年代から見れば、
1920年代は日本が海外に領土を積極的に拡張した時期で、モンゴル―満州の貴族は日本の武士と祖先を同じくしたという「東亜同源」に基づく学術的見解は、「満蒙の征服」を目指す当時の政治情勢や国家政策に迎合したものであり、出版されるやいなやベストセラーになったことは疑いがない。しかしながら、当時の学界の主流はこの見解に大反対であった
「朕の姓は源なり、義経の後裔なり。源義経の出自は清和(天皇)なり、故に国号は清なり」と記している。しかし実際は、『金史別本』は偽書であり、まったく信用できない。それに、清代の文献には乾隆帝によるこのような話は残されていない。清朝史研究者の研究によれば、「大清」という国号の由来は
中国語の「清潔」や「清浄」といった概念とはまったく関係がなく、満州語のDaicing(Daicin)という言葉が重訳されたもので、「勇士」を意味する[7]。
『成吉思汗ハ源義経也』に集められたこれらの音声学や民俗学に基づく根拠の信頼性に議論の余地があることは、現在のわれわれには想像に難くない。しかし、このような推敲に耐えられないような説が広く言い伝えられたばかりでなく、繰り返し引用され、転載されたのはなぜだろうか。出版された年代から見れば、
1920年代は日本が海外に領土を積極的に拡張した時期で、モンゴル―満州の貴族は日本の武士と祖先を同じくしたという「東亜同源」に基づく学術的見解は、「満蒙の征服」を目指す当時の政治情勢や国家政策に迎合したものであり、出版されるやいなやベストセラーになったことは疑いがない。しかしながら、当時の学界の主流はこの見解に大反対であった
義経は参謀タイプじゃないだろ
遊撃隊の隊長が一番似合う
遊撃隊の隊長が一番似合う
詳しい人、教えてください。
今、義経記を読んでるんだけど、
義経記ってどのくらいの信憑性があるですかね。
弁慶の立ち往生なんて現実あったとも思えないし、
他にも創作っぽいのがいろいろあるんだけどあまり詳しくなくて。
今、義経記を読んでるんだけど、
義経記ってどのくらいの信憑性があるですかね。
弁慶の立ち往生なんて現実あったとも思えないし、
他にも創作っぽいのがいろいろあるんだけどあまり詳しくなくて。
一応、吾妻鏡には弁慶の名前はあるらしいです。
でも義経記は義経が死んだ後200年後に書かれたらしいので、信憑性どうなんだろう。というか内容からして作り話っぽくて。
「牛若丸」という名前は義経記だと牛若としか書いてなくて。
誰かが「丸」をつけたんですかね。
もう本当にいろいろ変えられてり盛られたりしてるんでしょうね。
でも義経記は義経が死んだ後200年後に書かれたらしいので、信憑性どうなんだろう。というか内容からして作り話っぽくて。
「牛若丸」という名前は義経記だと牛若としか書いてなくて。
誰かが「丸」をつけたんですかね。
もう本当にいろいろ変えられてり盛られたりしてるんでしょうね。
判官贔屓なんて今や都市伝説だろ
そんなもんが今でも存在するのなら学校の虐めも増えないはず
そんなもんが今でも存在するのなら学校の虐めも増えないはず
昔民放でだが、
意図的に日本を源平それぞれの世に源平自体がしたとやってたな
平家じゃない平氏はまともな皇族だろうしね
意図的に日本を源平それぞれの世に源平自体がしたとやってたな
平家じゃない平氏はまともな皇族だろうしね